昭和五十六年一月六日 朝の御理解
御理解 第七節 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地は         はやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の         心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」 天地日月の心になる事肝要だと。お道の信心者のまあ、いうならば生きる生き方とでも申しましょうか。生きざま、その生きざまの中に天地日月の心がこうしゃんと筋金が入っていなけばならない。
 拝む事が上手だとか、毎日日参しておるとかというだけならやっぱり、何様の御信心でも大したかわりはないでしょうけれども、金光様の信心はその生き方の中にその芯が、天地日月の心になる事。ここは天の心で、ここは地の心で、ここは何とししても日月の心でいかなけれはならん。以前に頂いた日に月にと頂いた、確か“むつや”の信司郎さんが頂かれた御理解だったと思うんですけれども、それで日と月とをこう合わせると明るくという事になる。信心が、信心が日に月にやはり進んでいく、信心が日に月にいうなら実意丁寧な生き方をさせて頂いとれば明るいという事は、見通しが明るいという事だけではなくて、明るいおかげが受けられる。もうおかげが受けられるという事。日に月にいうのですから限りがない、いうならここで切れたという事がない。一生涯その中にいつもずっと、こうりきみきっとかならんというのじゃなくて、今日お休みならお休みの日なりに日月の心でいく生き方というものを、身につけていかなきゃならん。
 今日は初の壮年会でしたが、お正月のおしるしをさせてもろうて、そこから皆さんの一人々の今年のいわゆる新年の抱負といったようなものを一口づつ語ってもらったんですけれども、もう壮年会というよりも老年会の感じですけれど、会長さんが今年もう昔流に言うと七十五になられるそうです。若々しゅうされておりますけれど、七十五、やっぱ壮年会長としておかげを頂いとられます。それに、昨日発表されましたのに、今年はお酒を止める。もう昨日もお神酒が出ましたけれども、あがらんですもん。今年はお酒を止める事にしました。修行させて頂くとこういう。いつまで続くかわからんですけれどもと。そげなこつじゃでけんですよ、折角するならば本気でなさらにゃいかんですよ。やっぱり日に何回も二階にお神酒を置いとって、ちょこちょこ二階に上がってあがりんなさらんように、好きなのですね。酒飲みというよりも酒好きなんです。それを好きなものをいうならば止めてでも、しかも七十五にもなられてもうこん年なったから、好きなもんなっとん食べたり飲んだりせにゃといったような考え方ではなくて、いつもそこに精進の心というものがあるという事は素晴らしい。 今日言う、日に月にというのはいつも精進の心がなければでける事じゃない。
 そしたら次が安東さんでしたが、それを聞きながら話しておられるんです。安東さんは今年は七十になられるそうです。だから松岡さんの年までいくとまあ、五年間なあるわけで、まだ五年間な私も飲んだってよかばいのといった話でしたけど、この方も大変なこっちは好きで酒飲みというだけじゃなくて、酒好きで酒飲みで、もうこれは家内がどこにかくしとったって、ちゃあんとわかるち。それだけ開いて見たところがそこに酒が必ず入っているわけです。そういう時には許されたという気持ちで飲まれたらいいですねという事でした。
 探しまわり無かつば探しまわってとうとう探しださんな、近所ん酒屋に飲みに行こうといったような事は、そりばってん止めなさらんといけんですよと。開けてみた、そこにお酒があった、それこそ「耳かきのありて借りけり日和ぼこ」である。
 結局許されたと思うて飲まなきゃ、こそっと黙ってというのではやっぱり信心になりません。いうならば日に月にというのは、そういう心ではない。日に月には飲んではならんのじゃなくて、そこにあるのですから、いうなら感が働くわけです。
 こげんところには入っとらんめと思うと,ちゃあんとそこにお酒が入っとる。そんなお話を笑い話の中にしておられましたけれども、とにかく天地日月の心になる事という事を難しゅう考えてはならないと思うです。いつもの言葉でいうと人間が人間らしゅう生きる生き方というのです。
 そういう一つの芯というものがなからなければ、天地日月の心というものが筋金になっている。それはどういう事かというと、もう年だから七十五にもなって、いや今更好きなせのを止めるてんなんてんせんでん、そりゃもう頂こうといったようんじゃなくて、そりゃ出来るかでけないか実際わからんです。好きな物なんですからけれども、そしてそれに取り組まれるという姿勢が先ず第一。同時にいわゆる、日月の心というのは、どんなに好きであってもそこに好きすぎておかげを落とすような事があってはならない。
 そこの生き方の信条の中にいろいろ、耳かきのそこにありて借りければ日和ぼこ、というような生き方を身につけながら、そこから一つのリズムのようなものを感じとる事の出来る生き方を私は、天地日月の心を体得した人達の生き方というものは、そういう事になると思う。それをまあ、おおざっぱにわけますと、まあいよいよ限りなく美しゅうならにゃならんとか、もういよいよ大地の心で言わば黙って治めならんとか、もうそれこそきちっとした日月のような間違いのない実意さをもって、取り組まにゃならんとかとう言うと、ちょっと難しゅうなりますけれども、松岡さんといい、安東さんのお話を聞いて頂いたんですけれども、そういう生き方が身に付いてくる事なんです。信心とは。いうなら信心とはではない、いうなら金光教の信心、いいや合楽の信心とは、そういう生き方を身に付けていく生き方。だからその根底にはいつもいうなら、精進の心というのがなからなきゃならない。。
 これはいつくになっても精進するという。だから厳しいものではなくて、何かこうリズムに乗って愉快に出来ていくというような感じのね、信心を身につけていきたい 天地日月の心になる事肝要と、信心はせんでもおかげをやってある、もう信心はせんでもおかげをやってある。おかげをいかに私共が日月の心で活かしていくかという事だと思うですね。
     どうぞ。